昭和51年3月1日 朝の御理解

第68節 神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ     。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかにありがたそうに心     経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ     。柏手も、無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神に     は聞こえる。拝むにも、大声をしたり、節をつけたりせんでも、人に     ものを言うとおりに拝め。



 有り難そうに信行や大祓いをあげて、また、有り難そうにと。有り難そうにでは、やっぱいけんですよね。(    )有り難いというもんでなからなければいけない。えー、あの人はもう偉そうにしてると(よく?)言うですね。偉そうにしておる。それは、偉くないのに偉ぶっておると言うのですから、花持ちならない訳です。ね。偉くもないのに偉そうにしてる。ね。有り難そうにしておる。それでいて、実は心に有り難いというものも感じていない、おかげも頂いていない。それで、有り難そうにしておる。

 なるほど、神に嘘を言うも同然じゃと。神様が、やはり喜びなさらん事が分かります。ね。そこでです、始めに雨が降るから、風が吹くから偉いと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと仰せられる。その辛抱こそ身に徳を受ける修行。それは、なるほど辛抱にお徳が頂けるだろうと思います。例えば、なら有り難くなくても。ね、赤裸々にです、神様、今日はひとっつも有り難くありません。もう眠たいばっかりです。心に不安があって、心配があって、なかなか有り難くなれません。ね。

 それでもね、やはりすがらなければおれない内容、すがらなければおられない私。これは、おかげを受けるでしょうね。もう、始めから有り難くないとハッキリ言ったがいいです。もう苦しいばっかりです、有り難くないです。けれども、すがらなければおれない私。これなら、神様は、いわば花持ちならないという事じゃない。偉くないのに、偉そうにしてるんじゃなくて、もうつまらんモノはつまらんとして、神様の前に赤裸々に訴えておる訳ですからね。

 ね、ですから神様のおかげは下さる。けども、それが、なら繰り返し続いたからと言うて、ならお徳にはならない。やはり、信心辛抱の徳を受けるには、雨が降るから、風が吹くから偉いと思うてはならん。その辛抱こそ、身に徳を受ける(芯?し?信心?)。ね。おかげは、なら有り難くなくてもおかげは受ける。ただ、苦しいばっかりですと言うても、ね、でもすがらなければおられないというところにです。ね、神様の(でんびんの?)情が動くのじゃないでしょうかね。

 すがらなければおれない。ね。そこで、それはおかげを受けるけれども、お徳にはならない。お徳はやはり、信心辛抱。言うならば、そこをし、頂き抜かせて頂いたむこうにある。ほれは、皆さんも御信心を、こうして続けておられる内に体験がある事だと思うんです。ね。例えば本当に、はあ、今日は雨が降る、風が吹きよる。確かにしるしい。けれども、まっ、しるしいけれども、そこを辛抱し抜いてお参りをする。不思議にね、その辛抱のその後に、不思議に有り難いものが湧いて来るです。

 だからね、この有り難いというものは、自分が有り難うなろうとして、有り難くなれるものではないけれども。その、雨の降るでも、風が吹くでも、そこを辛抱し抜いて参って来た、その氏子の心にです、神様がお喜び下さるんじゃないでしょうか。その喜びが、こう反射的にです。辛抱し抜いた後に、ハア、辛抱し抜いて良かったという喜びが湧いて来るでしょう。そういう喜びが積もり積もって、徳になるのです。やはり、なるほど信心辛抱しておる内には徳が受けられると。

 二偏、三偏、五編辛抱したからじゃいかん。それが、辛抱し抜かれて行く内にです。ね、辛抱の徳が受けられる。この辺のとこをが信心の、まあ(命?冥?)というところじゃないでしょうかね。確かに苦しい事は苦しい。しるしい事はしるしいけれども。それを辛抱し抜かせて頂くというところにです。それこそ、雨の降る日はおじゃるなと言うに、濡れておじゃれば、なお可愛いというようなものが、神様の心の中に、神様が感じなさる。その感じなさるものが、私どもに交流して来る訳です。通うて来る訳なんです。

 分かるでしょうが、ああ、あの人が私を良く思ってないなと。口には言わんでも、感ずるです。はあ、あの人は、顔ではこう難しそうにしちゃるばってん、心では私がの事をよう思うちゃるなとってのが、分かるでしょうが。ね。神様の事ですから、尚更そこんところの交流がないはずはないです。ね。昨日、一昨日でしたかね。25日の研修ん時です。久留米の光橋先生が話しておりました。言うなら、今、大祓い信行が、まあ、盛んです。もう、記せずして有り難くなれれるんですね。

 これなんかは、今日は私が、もう有り難そうじゃない。始め(   )そうでものうても、大祓いを六巻、十巻とかあげて行く内にです。もう、それこそ神様の前が離れたくないぐらいに、段々有り難うなって来る。その有り難うなって来るその心で、また願う事が願うのですから、おかげ頂くはずですね。なぜ、有り難くなるかと言うと、無条件だからです。真心だからです。真心とは無条件。あればもらわんならんから、大祓いをあげよるとというのじゃない。これば頂かんならんから、参りよるというのじゃない。ただ、無条件の信心。それが、真心信心。

 真心だから、神様がお受けにならんはずがない。ところが、光橋先生の場合はです。もう、大祓い三巻までは、もうとっても有り難いち。もう、必ずと言うて良いぐらいに、四巻目、五巻目になって来るとです、もう眠うして、眠うして堪えんと、こう言うのです。だから私が申しました。あの大祓い信行を今、ほらあ、もう吉井の熊谷さんなんか五十巻からあげておるですね。東京のお孫さんと時間をちょっと示し合わせて、その時間に十巻。妹さんが今ガンで入院しておられます。

 全然信心がないのだけど、もう死を待つばかりというような状態になっておられますけれども。とにかく、心に有り難いものを頂いて、死の不安なんかは無くなる。大祓い信行をしてごらん。それから大祓いの本を持ってって、いわゆる始めの間はえらい反対しよんなさったけども、もう人間もギリギリというところになったら、本当に心が安らぎを得たい訳です。そして、大祓いを姉さんが言われる通りにやらすると、心が安らぐのです。それで、なら、アンタの一番都合の良か時間に一緒に、私とアンタ、兄弟揃うて大祓い、私が十巻あげるけん、アンタもベッドの上で寝ながら、大祓い十巻あげなさいよと言うて、それでまた十巻。ね。

 大阪におります長男夫婦。ね。始めの間はお母さん、子供おるし、主人の世話もあるから、私五巻ずつ揚げますからと、こう言う。なら、五巻でん良かけん、なら私は十巻あげるからと言うて。したら、先日から(先生   ?)あちらへ行ったら、あの、妹さんがあちらへ行ったら、お兄さんは大祓いを十巻ずつ上げよりますと言う。それが、子供の事で、何かお願いをさせて頂くことがあってね、それから、大祓いもう五巻上げますという風にした訳です。そしたらやはり、五巻よりも十巻が有り難いと言うて、大阪の嫁もやっぱり十巻あげよるそうです。
 ところが、ここは遅い訳です。ね、夜のもう、11時頃でしょう。ね、だから、また11時からまた十巻上げられる。吉井の石井病院の奥さんでありますところの娘さんも、こちらも信心はないのですけれども、つい最近、お参りをして来るようになって、その、おばあちゃんその、あの、大祓い本を買うて下さいという事で、大祓いを買うて、吉井のいわゆる娘さんと時間を示し合わせて。だから、皆が相手が時間が違うもんじゃけん、その時間にずっとあげなきゃならん。

 もちろん、ああいう結構な身分でおりなさいますから。ね、どんなに暇があるの、金があるのと言うてもです、やはり、その気にならなければ出来る事っちゃないです。ね、それがこの頃では、有り難い、有り難いと言うておられます。ね。問題はその気にならせて頂くと、それが出来るのです。日に五十巻ずつ大祓えるそうです。ね。それこそ、一つ包んでは父のため、二つ包んでは母のためといったような感じですから、もうこれが極楽行きの出けんはずはないですね。もちろん、心が助からんはずはないです。

 もちろん、だから、それにおかげが伴わないはずはないです。それこそ、見事な見事なおかげを頂き続けておられます。78歳になられる。三里の道を朝晩参られる、ここに。先日の筑水連合会の時に、一番最後に話されました。それは、もう本当に、もう本当にあれが実感でしょうし、もうそれは見事でした、その話が。して、私は78歳になりますち最後に言うたら、もう皆ため息、はあ~、ち言うてから、たまがっとったです。ね。もう、年を取れば取るほどに有り難うなる。いわゆる、信心辛抱の徳がそのようにして現れて来ておる訳です。ね。

 けれども、私はその光橋先生に、その25日の日でしたか、申しましたがね。貴方は三巻だけは有り難うして有り難うしてというぐらいに、もう始めから有り難い。いかに、常日頃に心の中に有り難いものがあるかという事が分かります。私なんかは大祓い一巻も上げませんですからね。人にはえらい、ね、さっ、大祓い信行やらんの、もうとにかく今年の合楽の焦点は大祓い信行の徹底にあると、こう皆に言うておるけれども、私は、なら一巻の大祓いすら上げていないのですよ。朝昼の御祈念やら、もう柏手さえ打たんのですよ。

 一時間ジーッと神様の前に御祈念させて頂いておるだけなんです。ね。ですから、本当言うたら、だいたい皆さん自分の心の中に、もう四六時中有り難いものが沸いておって。ね、有り難いものがあって。大祓い十巻上げよったのは五巻になる。五巻あげよったのを三巻になるというように、段々減ってくるようなおかげを頂くのが、本当なんです。光橋先生の場合なんか、もう御神前に出て、柏手して、もう拝み出したら、もう有り難いのがいっぱいだと、私は光橋先生の信心から、そう思う。それが、本当だと思います。

 だから、神様がもう三巻以上はお受けにならんのです。だから、アンタのは、もう三巻で良かばいと言うて、まあ申しました事でしたけれども。それが、行く行くはまた、二巻になり、一巻になるというようなです、おかげにならなければいけません。それが、大祓い信行の言うなら願いです。ね。無条件で真を持って、神様の前におかげを頂くのです。そういうのがです、いわば有り難い大祓いという事になる。有り難そうに大祓いを上げておるのではないのです。あり難そうにというのではいけない、有り難い。

 けれども、有り難くないなら、有り難くないとです、もう赤裸々に一つも有り難いものが沸きません、ただ、しるしいばかり、眠いばっかり。ね。先ず、自分の心を、この神様ばかりは赤裸々でなからなければ、通わんです。ね。いわゆる、神に嘘を言うも同然じゃというような信心ではおかげにならんです。ね。もう、十巻、そのままでなかにゃいかんです。ね。有り難くもないのに有り難そうに、言うならば、言う人がありますけれども。ね、それでは偉くもないのに、偉そうにしておるようなものですから。ね、あんまり受けが良くはない、神様に受けが良くないという事になる。

 それでも、信心辛抱をさせて頂く。雨が降るから、風が吹くから偉いと思わずに、苦しい。いや、しるしいけれども、辛抱し抜かせて頂くところにです、信心辛抱の、身に徳が受けられると仰るのは、それこそ、濡れておじゃればという心理状態です。神様の心理です。がです、ね。氏子かわいいというお心が動くのです。ね。その証拠には、辛抱し抜いた後に、必ず、確かにです、はあ、ほんに辛抱して良かったと、(    )で良かったと、もう心の中に本当に喜びが沸くんです。なら、その喜びは神様の喜びが繁栄して来るんだという訳です。

 だから、辛抱し抜かなければいかん。三代金光様が、十三のお年から御結界ご奉仕になられた。親様が仰せられの事であるから、ね、座っておれば楽じゃと仰せられるから、座ったけれども、なかなか楽ではなかった。朝の四時から夕方の四時まで、いわゆる、まだ遊びたい盛りのお子さんが御結界奉仕をなさるのですから。もう、きつうなったから、ちょっと立ち上がろうとすると、ここに偉い先生方がちゃんとおられてから、ああ、金光様とこう言われるから。泣く泣く座られた。

 泣く泣く辛抱しいしいに、辛抱しておりましたら、思う事も無くなり、欲しい物も無くなり、有り難うして有り難うしてという心が開けて来たと仰っておられます。もう、それこそ泣く泣く辛抱するその姿に、神様が動きなさらんはずがないです。子供が何かこう、歯を食い縛って辛抱しておる。親が、もうそれを見てからね、それこそ頭の一つも撫でてやりたいどころじゃない。本当に、何かもっと、ならやろうごたる気持ちが起こって来るのと同じです。

 だから、問題は辛抱し抜かなければ。そこにはです、辛抱し抜かせて頂いておられる内に、身に徳が受けてみえられたところから、我情が無くなり、我欲が無くなる。思う事もという事は、我情。はあ、あげんあって欲しい、こげんあってほしいというものが無くなったんです。私どもは、アアあってほしい、こうあって欲しいという我情があるから、不平不足が出るのです。なぜかと言うと、ね、というように、(問屋?)がそん通りに下ろしてくれませんものね。ね。だから、自分の思いを捨てる。

 アアあって欲しい、こうあって欲しいじゃない。そして、成り行きしょう、いわゆる出たところが勝負を有り難く頂くという生き方が一番素晴らしいのです。けれども、私どもは、なら、やっぱり、アアあったり、こうあったり、お願い致しますとこう言う訳です。さあ、息子が試験と言やあ、どうぞ試験が出けますようにという、願わにゃおれないのです。それが我情です。けれどもね、私はお取次ぎを頂いたら、私は任せにゃいかんと思うです。ね。

 昨日も、宮崎の中村さんという方から、晩遅う電話が掛かって来た。息子さんが福岡の大学に受験、御神意のまにまにおかげを頂いて、受験、本人もここにお願いに出て来ました。ああいう時にはおかげになるですね。私が宅祭りに出ろう、出掛けようと思うて、時間がちょっと遅くなった。それで、表まで出とるところへ、あの、見知らん学生が、あの、それこそ立っておりますもん。だから、誰じゃろうかと聞いたら、宮崎からわざわざ参って来たと言いよるんです。したら、只今から試験場へ参りますからというお取次ぎ。

 はあ、もう、そげん時に、こう間髪を入れず、神様が受けて下さったなという感じがするです。ね。もう何分か過ぎとったら、結局、なら宮崎から参って来よって、私と会えない事になる。おかげ頂くなと思いよったら、昨日、学校のあの、先生から、まあ、その内報ですけれども。まだ三月何日かが成績の発表ですけれども。それに、あの、確かに出けたという通知を受けたという電話が入りました。ね。だから、もうどうでも(    )来る、出けるように、出けるようにと親としての願いがありますから、もう出けたら、それこそ、もうさっそく電話でもして、お礼を申し上げあげなければおれないという心にもなる訳なんです。

 ね、けれども、もう一つ私が今、皆さんに聞いて頂いておるのはです。ね、そういう我情がある、願わにゃおれない事があるけれども、願うたらば、いわば、もう親先生に任せるという気になって、その我情はスタッと捨てると楽です。そすと、例えば、よし出けていなかっても、もうその時点で有り難いという心が生まれて来ます。ね。我情我欲はもちろん我欲です。ね、いわゆる三代金光様はです、いわゆる十三のお歳から始めの間は辛うて辛うて良う泣いたと仰せられるほどしの辛うあられたけれども。

 思う事も無くなり、欲しいものも無くなるという、いわば神徳の世界に御住みになった。そこからは、もう有り難うて、有り難うてという心だけが開けて来た。ね。そして、いくらお礼を申し上げても、お礼を申し上げても、そのお礼の足りないお詫びばかりをしておりますというような、もういよいよ、もう謙虚なお心の状態で70年間という長い間を、私どもの為にお取次ぎ下さった訳であります。ね、だから私共もやはりです、この雨が降るから、風が吹くからという事は、この天候だけの事だけじゃありません。

 日常生活の上にもです、はあ、これが雨じゃろうか、風じゃろうかという事がありますけれども。そこを辛抱し抜かせて頂いてです。いよいよ豊かな心、有り難い心を持って、そこを受け抜かせて頂くとです、受け抜かせて頂くその向こうに有り難いものがあるという事です。これは、必ず神様の喜びが私どもに返って来るという事がそのまま、なるほど神様の思いは返って来るのですから、それは神様のお徳が私の心の中に入って来るのですから、なるほど、これが積もり積もれば、辛抱の徳が、ね、ここに。

 その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃと仰せられる。ね。もう、身に徳を受けて来たらです。もう、もうそれこそ、大祓い一巻あげないも有り難い、有り難いというものが心の中に出ける訳です。御礼信話会でございましたから、皆さんの色々、お話を沢山聞かせて頂きましたが、本当に一番最後に宮崎の甲斐さんが発表しておられました。今度、まあ、ちょっとした事故が、えー、それも自分の、まあ、お粗末御無礼から飲酒運転。それから、無免、あの、免許書を持たずに、まだ他にいくつも重なったそうです。

 その顛末を、もう本当に、もう神様がお話の中に、こう躍動しておられるようなお話でした。もう、生き生きと働いておられる。もう、一番最後の、たとえばお金もずいぶん掛かるという事が、段々掛からんで済むごとなって行く辺りの話なんかて、はあ、もう神様の働きっちゃあ恐れ入ってしまうなと。まあ、そういう事を通して、改めて信心。いわゆる神様の働きの有り難さを、まあ、実感されたというお話でしたけれども。その間に、いつも不安があり、心配があるというお話でした。

 それは本人が言う訳じゃないけれども、やはり、もう、はあ、しもうた。こげん言うたなら、どうやろ、どうなるじゃろうかと。いわゆる、不安心配しょうそうの中にです、それでも神様がおかげを下さってあると言うのです。そこで、信心とはどういう事に直面致しましてもです。それを、御事柄として受ける、受けれる心の状態を作って行く事が信心です。金の杖をつけば曲がる、木や竹は折れる。

 神を杖につけば楽じゃと仰せられるますから、本当の神様を杖についておって、自分の心の中にです、有り難そうではなくて、有り難いというものがある限りです、例えそこに、目の前が普通で言うなら真っ黒なるような事が起こっても、それを御事柄として受ける姿勢が出けます。そういうおかげが頂けた時に、それは必ず徳になります。痛い事でも、はあ、痛い痛い痛いと言うておかげを頂いたと言うのと、その痛い、けれども有り難いというものが出けた時に、お徳というものは受けるもんです。

 だから、おかげとお徳の、そこの開きという事を思うたらです。どうでも、おかげを受けるでも、お徳の受けられる受け方をしなければならない。為には、本気で私どもがです、木や竹じゃなくてです。本当の神様を杖についておけば楽じゃと仰るのですから。自分の心に楽を感じない時には、まだ、本当の神様を杖についていない時だと悟らせてもろうて。いよいよ、間違いのない、本当の神様を杖につけれるようなおかげを頂くという事の為にはです、信心辛抱の徳を身に受けなければいけない事になります。どうぞ。



                   末永信太郎 ( 9月16日 )